五蔵を瞑想する -多賀大社フォーラム感想2-2006/09/08

今回の多賀フォーラムで予想外の収穫は「興教大師・覚鑁(かくばん)の身体論と身体技法」という正木晃先生の講演だ。

正木先生は密教研究の専門家なのだが、私が大学生のころはたぶん本を出版されていなかったのではないかな・・・少なくとも読んだ記憶はない。そのころは松長有慶先生・金岡秀友先生などの大御所が大部の研究書を出したり、若手なら津田真一先生、頼富本宏先生あたりが本を出し始めた頃だったように思う。そうそう、アマゾンで正木先生の本を調べていたら、大学時代の恩師のひとり、ツルティム・ケサン先生と共著を出していらっしゃるじゃないか。『チベット密教』という本なのだが、何年も前に買っておいて、ほとんど読まずに本棚に眠っているのを思い出した。ツルティム先生は、私が授業が受けていた頃にはだいぶ日常会話が上手くなっておられて普通に会話できたが、学術書を日本語で執筆されるのには少々苦しかったのか共著が多かった。正木先生もそういう感じで共著?・・・なんてヨタ話はどうでもいいですね。

さて覚鑁は真言宗中興の祖である。真宗でいうと蓮如みたいなものだな。その覚鑁に『五輪九字明秘密釈』とい主著があって、そこに出てくる「五蔵観」のエッセンスを解説するというのが正木先生の講演だった。この密教の五蔵観はどういうもので、中国医学の五蔵とどうちがうのか?あたりが話のポイントだった。

この五蔵観の前提には、密教 -- というよりインド思想でいう五大という考え方がある。万物の構成要素を地水火風空の五つのカテゴリーに分けたのだが、これが現象として何を指しているのかがまず問題になる。「アリストテレス四因説における形相因か質量因どちらに相当するのか?」、私は形相因に相当する、形相因を五つの性質に分類したものだと考えている。でないと五大を瞑想の対象とするときに意味がなくなるからだ。五大は現象として何に相当するか?という重要な問題は手元にあるインド哲学関係の本をしらべてもあまり明確に書いていないものが多い。瞑想もしない仏教学者もいるし、自分の瞑想体験を論文に反映しても論文として評価されないからなぁ。このあたりのことを正木先生に質問したかったのだが、質問の時間が無くてヒジョーに残念だった。

五大を形相因に相当すると考える理由を神秘学的(人智学的)に考えてみたい。形相因は人智学でいうところのエーテル界、人間ではエーテル体に相当する。このあたりは人智学の師匠の高橋巌先生に教えていただいたことなので間違いは無いだろう。「いわゆる瞑想」には止観の二種類があって、止は意識の働きを止めること、観は積極的に何かをイメージすることだ。前者を集中、後者を瞑想といってもいいだろう。ここで重要なのは、瞑想でイメージする像が何であるか知ることが重要である。

瞑想におけるイメージングでは像を表象することから始まる。最初期の段階ではこの像はエーテル体に映し出されたもの、というのがシュタイナーの考え方だが、イメージングを続けていくと像がエーテル界に働きかけるようになり、意識がエーテル界と一体化するようになる。意識がエーテル化することによって対象が物質界に関するものなら物質に作用し、霊界に作用するものなら霊界の作用するのだが、それがエーテル界の知覚体験ともなる。これは自我(Geist/atoman/人間の霊的部分が)がエーテル界に広がり一体化することでもある。密教における行法における入我我入、インドの宗教思想の梵我一如の体験の入り口であり核心でもある。

それから正木先生は密教における五大と五蔵の関係のお話をされているときに、「五蔵観の臟を、(中医や解剖学的な?)臓腑と直接結びつけてはいけない。(五大の)水は液体だからね・・・」という主旨のことを言われた。これを聞いて私は「そのとおりだ!」って思ったのですが、あとあと考えてみると、中医の五蔵より六気と結びつける方がいいだろうと思った(体内の六気は普通、暑は入れないで五気になるが)。臓腑が正常に働いているときは六気(五気)は正気だが、臓腑が失調すると内生の邪となる。たとえば肝は風の気をコントロールする臓腑なので、肝の臟が失調すると内生の風邪が発生する。このとこについても質問したかったけどほんとうに残念だ。

まあ正木先生の話を聞いてこんなことを考えていた。企業秘密を少し漏らすのだが、中医理論の理解を深化・再構築するために臓腑の形と気、六気を対象にした瞑想をしている。『五藏六府形気観』『六気観』といったところか?こんなヘンタイチックなことを考えているのは日本の鍼灸師の中でもあまりいないのではないかと思うのだが、何人かはいそうだとも思う。。。そういう方がいらっしゃればぜひコメントまたはご連絡ください。

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