井筒俊彦特集号(2)2009/04/09

今日の読書

言語が究極において沈黙にいたる

私には直接教えを受けた師匠が何人かいるが、本書にも執筆されている高橋巌先生もその一人だ。高橋先生は元慶応大学の美学教授で、日本におけるシュタイナー研究の第一人者だ。今の日本において、神秘学を実践的観点から言語化することにかけてはトップレベルの研究者である。

高橋先生は学生時代に、学年末試験のレポートのとして井筒先生から「言語が究極において沈黙にいたることを論ぜよ」という題を与えられたという。これは神秘学を実践している人間にとって、意識化しなければならない重要なテーマで、「対象(特に絶対者)を言語化するということはどういうことか」という認識論と、「対象を真に認識するとはどういうことか」という修行論の核心部分になる。

高橋先生は続けて、井筒先生の最晩年著作『意識の形而上学』をひいて次のように述べておられる。

もちろん言語が沈黙にいたるとは、哲学が神秘主義にいたるということだ、という発想は、先生の凡ての論文の中から響いてくる。けれども『意識の形而上学』の場合、形而上学的思惟の極限にいたって、なぜ言語がその意味と有効性を失ってしまうのかについて、こう述べている。--キリスト、大日如来、真如、それらの言葉は、絶対者を、絶対無分節的なものを、そう名づけることによって切り分けてしまう。言語は本来、存在を意味に従って区分し、切り分けることを機能としている。対象を分節することなしには、コトバは意味を指示できない。しかし「形而上的なもの」は究極において絶対無分節なのだ。

ここで重要なのは、「哲学が神秘主義にいたるということ」「言語は本来、存在を意味に従って区分し、切り分けることを機能としている。対象を分節することなしには、コトバは意味を指示できない」の二点である。

人間は言語活動によって、存在を恣意的に意味づけている

意識の機能としては後者が先で、ようするに「人間は言語活動によって、存在を恣意的に意味づけている」ということだ。別の言い方をすると「言語による意味づけは恣意的なので、言語によっては対象の全体性を記述できない」ということだ。これはもちろんソシュール以降の言語哲学の基本的な考え方が前提になっている。ソシュール以降、どのような学問も、この考え方を前提にして構築されなければ相手にされなくなったというくらいに影響を与えた考え方である。

「人間は言語活動によって、存在を恣意的に意味づけている」とすると、いったい対象を真に認識するとはどういうことか?ということになる。それに対するひとつの答えは「人間は言語によって対象を理解しているので、対象を真に理解するということはできない」というもの、現代の学問は基本的にこの延長線上にある。

哲学が神秘主義にいたる

もうひとつは、言語行為がが対象の恣意的解釈にならざるをえないのなら、「言語行為を越えた認識方法があるのではないか?」という発想である。それこそが「言語が究極において沈黙にいたる」ということでり、「哲学が神秘主義にいたる」ということである。密教も禅も老荘思想もヴェーダンタもそういった流れにある。神秘主義を語るということは「沈黙しないとできない認識を語る」という相反することを行うことである。それは真に神秘主義を理解しようと思えば神秘主義者にならないとふかのうということだ。

しかし思想を扱う専門家である哲学者が神秘主義者になるということは、日本では学者としては御法度で、学者ではいられなくなってしまうことを意味する。少なくとも、学問と神秘主義者の仮面を使い分けないといけないというのが現状だろう。

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