祖父母の遺影に思う・・・2009/04/23

祖父母の遺影

上の写真は母方の祖父母の遺影である。先日、母親の実家へ行った折に撮したものだ。

私は、いろんな点で祖父に似ている。私と祖父の写真を見比べると、私が黒縁のロイドめがねをかけて髪型を変えればそっくりだと思うだろう。祖母は私の母にそっくりだ。

母の実家は、三重県名張市にある大きな農家である。GHQの農地解放製作でかなり土地を失ったが、それでも結構広い田畑山林を有している。祖父は祖母の実家に婿養子に来た。地域の大地主の三男坊で勉強が好きだったらしく、大阪の天王寺師範学校(現、大阪教育大学天王寺校舎)を卒業し、大阪で小学校の教師をしていた。

祖母は農家の三人姉妹の長女、跡取り娘であった。祖母は当時の農家の娘としては珍しく、高等女学校を出ている。電車に乗って榛原まで通っていたようだ。祖母の父、つまり私の曾祖父は28才のときに結核で亡くなったそうだが、それはたぶん祖母がまだ子供の頃だっただろう。小作人がいたそうだが、曾祖母と祖母姉妹の女所帯では苦労したのではないかと思う。

祖父は教師時代に祖母のところへ婿養子に来た。大東亜戦争が始まるころまでは大阪でいっしょに生活していたようだが、戦争が始まると田舎に引っ込んだ。戦後、祖父は田畑を耕しながら、実家が経営する製材所の手伝いをしていた。

祖父には叔母・母・叔父の三人の子供がいた。最初に嫁いだ叔母に二人の娘ができたが、息子はできなかった。次に嫁いだ私の母に長男、つまり私が生まれた。祖父にとっては初めての男の孫で、たいそううれしかったらしい。私に弟二人、叔父に一男一女ができたが、それでも私が一番かわいかったようである。

私の家族は5歳まで西宮に住んでいたが、母は1~2ヶ月に一度は里帰りをしていたので、車で送り迎えをしてくれたり、特急券を手配してくれたりしたのを覚えている。祖父は私に草笛を鳴らしたり、ふきのとうで水車を作ったり、蛍をとったり、釣りをしたりと、農民の遊びを教えてくれたもした。

私が5歳になったころ、大阪市内に引っ越してきたが祖父は胃潰瘍やガンで入退院をくりかえし、63才の若さでなくなった。私が10才のときである。とびとびになるが、母の実家でのことを何回かに分けて書いてみたい。

私にとって子供時代の記憶は、友だちと遊んだことよりも、なぜか母の実家で体験したことの方が多い。今の私の仕事や考え方・趣味に大きく影響しているのは強く感じる。

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