山の精気をいただきに行く

いい天気なので久しぶりに山へ行くことにした。最近はほとんど山に行けず、足の筋力がずいぶんと落ちたうえ、お伊勢参りで少し膝を痛めたので、リハビリをかねて軽いルートにした。駅から登山口まですぐの山であること、家から近いこと、短くて簡単なルート、自然林が多いことなどを条件にいろいろ考えて、比良山系に出かけることにした。JR湖西線で北小松まで行き、ひとつ山越えして麓の集落へ下りるルートだ。

私は疲れたときに山へ行って、山の陰の気を浴びると精気が蓄えられるので、海よりも好きなのだ。精気が得られる山は、手が入っていても自然林でなければいけない。杉の植林の山では山に生命力がないのでだめである。自然林の中で、山の精気と私が一体となる瞑想をする。山の神様の恩寵を受けに行くのだね。

登山口あたりから自然林が多く、天気も良かったので気持ちがいい。途中で沢沿いに歩いていたら、ルートを間違えたのだが、そのおかげで絶好の瞑想場にでくわした。地面は落ち葉が厚くてすわり心地良く、適度に日が当たる林だった。山の神のお導きだろう。ここで天の気と地の気を私の体で交流させる瞑想をした。瞑想していると、ヒーリングエネルギーに変化させるバリエーションを思いついたので、やってみたらなかなかよい。鍼灸治療のパワーがあっぷされるだろう。

私はヨーガや仏教、人智学を中心にずいぶんエソテリックな行をやったが、結局は神道にいきつくのではないかと密かに思っている。神道の行はしたことがないのだが、自然の中に神を見る神道が、自分にすっきり治まるような気がしている。日本人だからかなぁ。

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神秘学としての中国医学

なんだか書くパワーが小さくなっていたので、更新を一月ほどおこなっていなかった。このブログをおもしろがって定期的に読んでいてくださる方もいるようで、もうちょっと書く頻度をあげたいなあ

以前、中国医学を理解するためのポイントという記事を書いたが、そこで紹介した原稿のうち、雑誌に採用された方の原稿を以下に載せてみます。人智学協会の友人から、「ちょっとむずかしいねぇ」といわれた。原稿用紙5枚という制限だったので、ああなってしまった。このブログに載せるのに加筆しようかと思ったが、時間があまりないので、そのまま載せます。そのうち気が向いたら、問題としていることをひとつひとつ、とりあげて解説します。

 ----------- 以下採用原稿 ------------

人智学の観点から中国医学の古典を読んでいくと、時代をさかのぼるほど神秘学的に芳醇な人間観・医学観を見つけることができる。道教系の医学書になってくると、神秘学の修行にも直接的に言及している。古代中国の神秘学の思想を、現代人にもイメージしやすくとらえ直し、役立つような形で再提示していく必要があるように思う。ところが現状はきちんとした医学理論を無視して「気」どうのこうのという怪しげなヒーリングや修行などが流行したりしていて、専門的に学んだ私としては非常に残念である。その最大の原因は中国共産党の政治思想の制約から神秘学的な研究が許されなかったからだと私自身は考えている。ここでは中国医学を神秘学的に読み込んでいくポイントをいくつか記してみよう。

中国医学を神秘学的に読み解く第一のポイントは存在は気から成り立っているという思想を存在論的にどうとらえるかという問題である。気とは存在を本質と存在の形態という観点から見たとき、存在の形態に相当する概念である。本質は太極とよんでいる。気と太極の関係はアリストテレスの質量因と形相因に相当するものであるが、人智学ではエーテル界の概念と気の概念の関係を存在論的観点からどう解釈するかを考察する必要がある。

第二のポイントは、「存在は気から成立している」という思想から、自然界は一元の気として成立している(気一元論)という考え方が出てくるが、これをどう解釈していくかという問題である。これには二つの重要なポイントがある。ひとつは認識論的な問題で、存在を気一元としてとらえることができるのは、東洋の基本的な神秘学思想に通底する主客合一体験という、われわれの分別をいったん放擲した後に獲得できる認識だけであるのだが、これをどうとらえるかという問題。もう一つは気一元として自然界をとらえる場合、自然界全体と個物の関係性をどうとらえるかという問題。現代の思想でも世界は個物の積み重ねによって成立しているという要素論的な思想は衰退し、個物が関係しあって全体として意味があるという全体論的な思想が優勢になりつつあるが、これを気一元論としてどう考えていくかという問題である。中国医学では特に人間と自然との関係性を気一元という観点から実に詳細に体系づけられている。

第二のポイントから「大宇宙としての自然」と、それに照応する「小宇宙としての人間」との関係を、具体的にどうとらえていくかという第三のポイントが出てくる。たとえば中国医学では、季節や生きている土地に応じた身体をしているのが、健康的な肉体の姿として考える。春には春の身体に、夏には夏の身体に、温帯気候の土地で生活している人はそれ応じた身体に、砂漠気候の土地で生活している人はそれに応じた身体になっているのが健康的な肉体の姿だと考える。いわゆる身土不二の思想である。

第四のポイントは第三のポイントの「大宇宙と小宇宙の関係性」を具体的に観察するする詳細な技術が中国医学にはあるということである。それは中国医学の四診という診察法である。四診とは望診・聞診・問診・触診を指す。四診、特に望診と触診のポイントは、各種診察部位は人体という大宇宙と照応する小宇宙であるという発想を元に診察体系が組み立てられている。つまり小宇宙としての診察部位から、身体という大宇宙と自然界という大大宇宙の関係性を診察するのである。

第五のポイントは第四のポイントの診察法をどのような観点からとらえていくかである。この基本が有名な陰陽という二分割法と五行という五分割法である。陰陽は主として人体を二分割して観察するのに使われる。たとえば背中側と腹側、上下・左右・浅深などである。五行は五蔵(肝心脾肺腎)の気と、病気の原因である五邪(風熱湿燥寒:これに暑を足して六邪にすることもある)に対応させる。五蔵は解剖学的な観点としての五蔵だけでなく各蔵の持つ機能を5種類の気として捉える。これは五蔵に対応した五種類のエーテル体と考えることができる。

以上、非常におおざっぱではあるが、中国医学を神秘学として考えていく際のポイントを思いつくままに列挙してみた。中国医学は神秘学として深めていくのにきわめて実践的な体系を残している古い思想だと私は思っている。しかしそれを現代の神秘学の問題として再提示されたことはほとんどないように思う。それを果たすのは人智学徒の課題ではないだろうか?
 

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厄払いに行ってきた

今年は厄年なので、西宮にある門戸厄神に行ってきた。私は儀式と制服が大嫌いで気乗りはしなかったが、関西では厄除けで有名なお寺なので散歩ついでに行ってきた。

おきまりコースとしては1万円でご祈祷してもらい、厄除けの煎餅または饅頭を買って帰って周囲の人に配る。厄除け煎餅もしくは饅頭、他にはぜんざいなどを周りの人に食べてもらうのは厄をみんなで食べてもらうというものだ。食べさせられる方は、いい迷惑だと思うのだが・・・

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霊性学に感銘1

もともと読書好きな上に、本を読むのも仕事のうちということもあって、毎月たくさんの本を読む。しかし人生の肥やしになる本と出会えるのは年に数冊である。その数冊のうちに含まれる最近の本といえば菅原浩氏の『魂のロゴス』だ。

菅原氏は長岡造形芸術大学の助教授で、表象文化論、神話学、比較宗教論を研究されている学者なのだが、単なる文献学者ではなく神秘学をひろく実践されているようで、霊性学というのを提唱されている。霊性学については霊性学入門というサイトで紹介されている。また日々の実践録がブログサイトSpirit, Soul & Bodyにつづられている。霊性学入門のサイトに書かれている。霊性学の内容は、私がずっと取り組んできた視点とほぼ同じでおどろいた。ブログサイトの方は日々の実践について書かれており、思索の断片としても情報源としても非常にすぐれていると思う。

菅原氏の『魂のロゴス』はHPで知り、買ってみた。本の話は霊性学を研究する学者と、霊性学に興味を持っている男女二人が、宇宙と叡智をめぐって対話で進んでいく。哲学や宗教の神学的論争をふまえながら、人間の霊性について語られて行く内容が鋭くて新鮮だ。

たしかに、世界がこのように見える、ということは、世界そのものがそのように実在して、それを「ありのまま」に写し取ることによって見えている、というわけではないのはもちろんだろ。それはカント以来の常識だからね、世界がそのように見えるのは、むしろ私たちの精神構造がそのようになっているからであって、本当にそのままの形で世界が実在していることは証明できないわけだ。このことは認知科学によっても確認されたと考えていいと思う。ここでもう一度言うが、「脳」は問題ではないんだよ。脳は存在するものの次元であって、存在そのものを問題にしている場面で問題にするのはカテゴリー・エラーになるからね。つまり、すでに分節が終了した世界においてある現象の一つを持ってきて、その分節そのものの生成について論じるのはまずいんだ。(中略)つまり、分節とは、心でも物でもない。それは存在の展開であり、認識の展開である。別の言い方をすれば、「意識場」の展開といってもいいわけだ。(P73)

カテゴリーエラー云々以降の部分などは東洋の神秘哲学では世界的学者だった井筒俊彦先生の論文を、実体験と照らし合わせて理解しないとなかなか出てこない表現だ。

意識と世界とを対置して考えようとする思想は、袋小路に入る。なぜそういうふうな発想しかできないのかといえば、それは単純に、そういう人は、ふだんは隠されている魂の無意識部分を「知覚」するという経験をまったく持っていないし、そのような可能性は考えたこともない、ということだろう。それは個人的な限界であると同時に、文化的な限界でもある。自我意識から出発することをあたりまえだと思ってしまうのは、人間が「無限」の感覚を失った結果だ。(P76)

うーん、明晰で鋭い表現は悔しくなるくらいである。商売柄、神秘学やニューエイジ系の本をたくさん読むが、神秘学の根本的立場をこのように明晰にさらりと述べる記述はほとんど見かけない。アカデミックな作業を積まないとなかなかこういった表現は出てこないだろう。

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シュタイナーの認識論の核心

ルドルフ・シュタイナーの最晩年の重要な講義に『霊学自由大学第一学級のための秘教講義』というのがある。聴講資格を厳しくし、限られた弟子だけにおこなった講義である。全部で18回行われた。この講義はあまりにもエソテリックな内容だったため、シュタイナーの死後も長らく講義録が一般公開されなかった。

昨日今日と、世界的な人智学者である高橋巖先生から、これをテキストにした講義を受けた。日本人智学協会会員限定で、17回目の講義である。内容をここで書くことはできないが、シュタイナーの神秘学の根幹に触れられてとても勉強になった。その根幹というのはシュタイナーの認識論の根幹である。シュタイナーは学位論文の『自由の哲学』を皮切りに、数多くの認識論を語った。以下に書く内容はそれらの著作を通してある程度知っていたことであったが、今回高橋先生の講義を受けてそれが自分の中で明確に整理されたので少し書いてみよう。

20世紀前半以前の学問には、「学問は真理を探究するものである」という価値観が広く受け入れられていた。それが学者の基本前提だったのだが、20世紀後半にはそういう価値観が全く否定されてしまった。

何らかの現象を人間が知覚する。知覚内容は生物学的な知覚強く依存しているが、それだけではなく、過去の経験や・好き嫌い・興味・文化・思考のパターンと深く結びついている。それは現象を捉えたものではなく、そういった知覚や認識のフレームから恣意的に知覚内容を「構成し」、さらにその構成された知覚内容に、人間が意味づけを「構成して」認識が完了する。つまり認識内容は現象自体を知覚して認識したものではない。

20世紀後半には、こういう社会構成主義的な考え方が一般的になってしまった。

さて、このような考えだと、構成された認識内容は個々人の恣意性にゆだねられており、現象そのものを認識
したものではない。逆に言えば人間は現象そのものを認識することはできない、カント的にいうならば「物自体は認識できない」。しかし神秘学的な認識論はそれを超えていく。

シュタイナーの考え方によると、我々が通常の認識(現象の物質的側面の認識)によって得られる知覚像は、構成主義的な立場とほぼいっしょである。違いはそこから先である。構成主義的な考え方の基礎には唯物論が前提としてあり、現象と人間の間には知覚という壁で閉ざされているのが前提だ。そこから先はない。しかし神秘学ではそれは人間の肉体的知覚を前提にしたものであると考える。つまりそういう前提自体も「構成された」ものなのだ。物質的現象の背後には霊的現象があり、それを分離して認識してしまうのは人間の通常の知覚-認識システムによるものなのである。現象の物質的側面の認識内容は仮象であって、その仮象を破壊し、人間の認識が霊界参入したときに現象の真の認識が得られるとするのである。

こういう発想は正しい瞑想をしていればすぐ気づく。我々が日常生活をしているとき、自分の思考内容を観察することはあまりないだろう。学者が何かについて考えを巡らしていても、その思考内容と思考そのものが別だという体験をしたことがある人は少ないと思う。しかしただしい瞑想をして深まってくると、思考内容と思考そのものが分離し、思考内容や思考像、思考の志向性を観察している思考状態になる自分を発見する。ここでいう「思考内容や思考像、思考の志向性」が実は仮象なのであって、それを観察している思考状態における知覚が真の知覚なのである。シュタイナーはこいういった認識状態になることを霊界参入と言った。

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間違った霊的修行法2

(昨日の続き)

具体的に書いてみよう。瞑想していてあるヴィジョンが見えたとする。まず第一段階はこれが霊視能力に由来するものなのか、幻覚や記憶像といった非霊視像によるものか認識できるようになることが重要である。

仮にそれが霊視体験だったとして、瞑想状態から通常の意識にもどったとき、それを修行者が思考している構造を意識化できるかということが次に重要である。

たとえば瞑想から出てきてそのときの体験を想起したり語ったりする。霊視体験はあくまで霊視体験であって、非日常的な知覚能力を使っての体験である。しかしその霊的体験を誰かに語ろうとするとき、意識に現れるのはあくまでも非霊視的で日常的な表象や記憶像を使って、この世の言語(日本人なら日本語)でしか語らざるをえない。つまり霊的体験をこの世の言語形式に翻訳してからしか、体験内容を語ることができない。こういう意識構造を意識化できていないと、表象内容や記憶像を霊的事実だと思いこんでしまうことになる。これも「魔境の境地」のひとつだ。ほとんどの自称霊能力者や霊的修行者はここのところがほとんど分かってない。

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間違った霊的修行法1

私が高校生の頃、伝統的な宗教の神秘主義的な行が少しずつ公開されはじめて「精神世界の本」の本というのがブームになった。最初の頃は、東洋物だと密教系の仏教・ヨーガ・修験道、西欧だとキリスト教の神秘主義者、薔薇十字団やフリーメーソンなどの伝統的な修行体系を紹介している本が多かったが、しだいに個人的な神秘経験をまとめた本や、独自に修行法をまとめた本が増えてきた。今では本屋の「精神世界の本」のコーナーへ行けば後者の本であふれている。そういった本を読んでいて感じるのは、大多数の人が霊的修行の基本的なことを間違っているということだ。

霊的修行というのは、人間は通常自己制御できていない思考・感情・意思といった精神活動や無意識的行為を、<意識的に>変容させる訓練を通して高次の意識状態を得ることである。それを行うために、ある段階では瞑想やチャクラ開発の訓練を行う。

ところが大多数の人は、霊的修行とは瞑想やチャクラの開発・霊能力養成の訓練をすることによって高次の宗教経験、仏教風にいうと悟りの世界を体得できるととらえている。しかしそれは本末転倒である。ここのところが大多数の人は分かっていないので一種の「魔境の境地」に陥っている。ここのところを踏まえてないので、霊的体験とは何か、その意味とは何かということを間違っているのである

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